沖縄県石垣市で生まれる。
母は実家が営む、みんさー織に従事しており、幼少の頃より染色を身近に見て育つ。
小学校を卒業後単身長崎県の私立中学へ入学。東京の都立高校を卒業後、京都府舞鶴市のポリテクカレッジ染織技術科へ入学。そこで染織に関する専門的な知識を得る。
26歳で帰郷し、草木染め・紅型染めを中心とした工房を営み、その傍らみんさー織の多種のデザインや商品の開発を手伝う。
その頃から藍染めに興味を持ち始め、原料の栽培などの研究を始める。
私の母親は、祖母がミンサー織り復興の為始めた「みんさー工芸館」を手伝っていたため、幼い頃の私の遊び場は、機織り機が並び、おばさん達が糸を手に作業する工房でした
今思えば、機音や糸・染料の香りを懐かしく感じるのはそんな幼少期を過したからではないでしょうか…
小学校を卒業する頃、この南の果ての小さな島が嫌で、都会への憧れが強く、島を離れ九州の中学へと進学しました。在学中は本当に親に大変な迷惑をかけたものでした。
東京で高校を卒業を控え、その後の進路を決めかねていた頃、京都の舞鶴にある職業訓練短期大学に、染織を学べる課があることを知りました。この短大では染織の知識を幅広く学ぶことができ、今ある自分の基盤作りができたと思っています。
短大卒業後、「帰って来い」という両親・祖父母の反対を押し切り、在学中からバイトをしていたホテルにバーテンダーとして就職。「何故バーテン?」とよく聞かれますが、サービス業にとても興味があったこともありますが、とにかく「遊びたかった」ということが正直なところです。
でも、その頃に遊びも含めて、いろんな経験をする事ができたと思っております。
ただ、母親との約束で、「30歳になるまでに島へ帰る」という事は、忘れることはありませんでした。
1998年年末に島で染織を一生の仕事とすることを心に決め帰郷。紅型作家である妹と一緒に、草木染を中心に行う染色工房「ku-ya」を創業。
しばらくし、妹は作家としての頭角をあらわし始めたのとは反対に、何をしていいのか・何がしたいのか・・・自分の創作活動のあり方について悩んでいました。
生活の為もあり、親元の「みんさー工芸館」の企画室で手伝いをさせてもらい、いろんなみんさー織のデザインや商品開発をしながら、草木染はもちろん、小さく藍の畑をつくり、藍の原料作りや、糸芭蕉を栽培し、繊維をとったりと、島の自然素材の魅力に取り付かれていきました。
2002年現在の場所に農地を購入し、農地といっても石ころだらけの荒れた土地だった所を土つくりがら始め、インド藍(ナンバンコマツナギ)の種を蒔き育て今の島藍農園が誕生しました。
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